日常の風景 その4
寒い冬の夜風が、頬をかすめる。いつもなら、この時間、とっくに帰宅している。
駅に向かって歩きながら、スマートフォンを取り出す。明日の予定を確認しようとして、ふと、田中さんの企画書のことを思い出す。今日はろくに目も通せなかった。でも、不思議と焦りは感じない。
(明日の朝一番で確認しよう)
そう思える自分が、少し新鮮だった。
改札を通り、ホームに向かう階段を上りながら、江口さんとの会話が頭をよぐる。明日の朝礼。データの準備。一緒に。
(私、明日、どんな顔をして会社に行くんだろう)
エスカレーターに乗りながら、ふと朝のことを思い出す。完璧な笑顔を作って、完璧な挨拶を繰り返して。
電車を待つホームで、スマートフォンの画面に映る自分を見つめる。今朝見た顔と、同じように見えるはずなのに、どこか違う。
「次は、中央線快速電車…」
アナウンスが流れ始める。いつもの時間より遅い電車は、いつもより空いている。座席に座って、窓の外を見る。
明日は、どんな一日になるんだろう。不安? 期待? どちらとも違う、何か温かいような、そわそわするような感覚。
江口さんの「一緒に」という言葉が、また胸の中で響く。
(明日は、ちょっとだけ、いつもと違う私でもいいのかな)
携帯に、佐々木さんからのメッセージが届く。
『ミユキちゃん、さっきの提案のこと、部長に話してみたよ。明日、詳しく聞かせてくれるかな?』
メッセージを見つめたまま、しばらく指が動かない。いつもなら、すぐに「はい、承知いたしました!」と返信するはずなのに。
電車が、高層ビルの間を縫うように走り出す。窓ガラスに映る自分の顔が、ビルの明かりに照らされたり消えたりを繰り返す。その度に、少しずつ表情が変わっていくような気がした。
(返信、しなきゃ)
画面を見つめ直す。でも、いつものような言葉が出てこない。だって、今の私は、いつもの私じゃないから。
『ありがとうございます。
明日、改めて説明させてください』
送信ボタンを押す。簡潔すぎたかな。でも、なぜかそれ以上の言葉を足す必要を感じなかった。
電車が、住宅街に入っていく。窓の外には、家々の明かりが見えはじめる。見慣れた景色なのに、今日は少し違って見える。
(明日の準備しないと…)
頭の中で、朝礼での説明をシミュレーションし始める。江口さんのデータに、私の改善案を組み合わせて…。そう考えていると、不思議と胸が温かくなる。
最寄り駅で降りて、いつもの道を歩き始める。まだ寒いはずの冬の夜なのに、体の中は何だかポカポカしている。それは、緊張なのか、期待なのか。
マンションのエレベーターに乗り込む。今朝、完璧な笑顔を確認した、あのエレベーター。鏡に映る自分は、まだどこか落ち着かない表情をしている。でも、それはそれで、いいのかもしれない。
部屋のドアを開けながら、スマートフォンがまた震える。今度は江口さんから。
『明日の資料、今作っています。浅見さんに見ていただきたい部分があるのですが…』
その瞬間、今日一日が走馬灯のように頭をよぎる。朝のエレベーター。朝礼での江口さんの発言。佐々木さんとの会話。田中さんの企画書。そして、カフェでの時間。
(もう、戻れないのかな)
玄関で靴を脱ぎながら、そんなことを考える。でも、それは不安というより…。
『私も後ほど、気になっているデータをお送りします』
送信ボタンを押して、マンションの窓から夜景を見る。オフィス街の方角が、まだうっすらと明るい。
リビングのテーブルに、パソコンを広げる。普段なら、家に持ち帰って仕事なんてしない。それが「いい子」じゃないって、誰かが決めたみたいに。
画面に、広告運用の数値が浮かび上がる。町工場のデータ。佐々木さんの案件。そして、江口さんが言っていた改善案。
(これを、こう組み合わせれば…)
気づけば、熱心に画面を見つめる自分がいた。明日の朝礼で話すことを、箇条書きにしていく。さっきまでの温かな感覚が、少しずつ、確かな手応えに変わっていく。
「あっ」
時計を見ると、もう23時。こんな時間まで仕事をすることも、いつもの私らしくない。
『江口さん、確認していただきたいものがあります』
送信する指が、少し震えている。でも、それは緊張からじゃない。きっと、何か始まろうとしている予感。
スマートフォンの画面が、すぐに明るくなる。
『はい! ちょうど私も確認したいことがあって…』
メールのやり取りをしながら、いつの間にか深夜0時を回っていた。画面には、江口さんと二人で作り上げた資料が表示されている。
(明日、これを発表するのか…)
今更のように緊張が込み上げてくる。でも、それは今までのような、演技がバレる不安とは違った。
ベッドに横たわりながら、明日の光景を想像する。朝のエレベーター。完璧な笑顔を作らなくちゃ、という思い込み。でも、もう演じなくていいのかもしれない。
「明日は…」
天井を見つめながら、つぶやく。
『お疲れ様でした。明日、よろしくお願いします!』
江口さんからの最後のメッセージに、今度は迷わず返信する。
『こちらこそ、ありがとう』
送信ボタンを押して、深いため息をつく。今日という一日が、私の中で何かを変えていく。それは小さな、でも確かな変化の予感。
目を閉じると、カフェで江口さんが言った「一緒に」という言葉が、また響いてくる。
明日は、新しい私の、最初の一歩。
そう思ったとき、不思議と、心が軽くなるのを感じた。