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第1章『仮面の理由』 〜5〜

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新しい朝

朝7時45分。

いつもより15分早く会社に着いた。パソコンを開き、昨夜江口さんとやり取りした資料を確認する。メールには、彼女からの返信が届いていた。

『改めて確認させていただきました。浅見さんの視点で数字を見ることで、私には見えていなかったものが見えてきました。今朝の発表、緊張しますが、一緒に頑張りましょう』

胸の奥が、少し温かくなる。

エレベーターホールに人影が増えてきた。いつもなら、この時間に完璧な笑顔の確認をする。画面の数字が、私に何かを語りかけてくる。

「おはようございます」

いつもの挨拶。今日は演技でも建前でもない。本当に、新しい朝が来たような気がしていた。

エレベーターを降りたところで、江口さんとばったり出会う。

「おはようございます」

互いに声をかけながら、昨夜のメールのやり取りを思い出す。早朝まで何度も確認し合った画面の数字。クライアントの課題。改善への提案。

「資料、最終確認しておきました」

江口さんが小さな声で言う。

「ありがとう。私も見ておいたわ」

さり気ない会話。それでも、二人とも昨日までとは違う空気を感じていた。

「朝礼、まだ15分あります」

江口さんが時計を見る。プレゼンの準備をする時間は十分にある。会議室に向かいながら、私は昨夜考えた説明の順序を頭の中で整理していく。

いつもの会議室。いつもの席。佐々木さんや田中さんの姿も見える。なのに、全てが新鮮に感じられる。江口さんがパソコンを開き、画面を投影する準備を始めた。

「それでは朝礼を始めます」

部長の声が響く。いつもの朝礼なのに、どこか空気が違って見える。

「昨日の案件の続きから検討したいと思います」

画面に数字の表が映し出される。昨日の朝礼で、江口さんが指摘した数値だ。

「江口さん、君の意見は確かにデータに基づいていた。ただ、もう少し違う視点からの分析も必要だろう」

部長の言葉に、会議室が静まり返る。その時。

「失礼します」

自分の声だった。会議室の視線が、一斉に私に向けられる。

「浅見さん?」

部長が意外そうな表情を向ける。いつもなら、そんな視線に縮こまっていたはずの私が、すっと立ち上がっていた。

「江口さんの分析に補足させていただきたいのですが」

パソコンの画面を切り替える。昨夜、二人で作り上げた資料が、スクリーンに映し出される。

「確かに、単純なCTRの低下だけを見ると、懸念材料に思えます。しかし、この数字の裏には、別の示唆があります」

声が、自分でも意外なほど落ち着いている。演技でも、無理な明るさでもない。ただ、伝えたいことを伝えようとしている。

「これは、クライアント別の反応率の推移です」

グラフを指し示しながら、説明を続ける。

「大手クライアントと、中小企業では、明確な傾向の違いが見られます。特に、予算規模の小さい町工場や個人事業主の方々は、投資対効果をより重視される。だからこそ…」

画面を次のデータに切り替える。昨夜、江口さんと二人で組み立てた改善案が、シンプルな図で示されている。

「単価を下げるのではなく、むしろターゲットを絞り込んで、必要な場所により多くの投資をする。そうすることで、限られた予算でも、確実な成果を出せると考えています」

会議室の空気が、少しずつ変わっていく。部長が腕を組んで、じっと画面を見つめている。

「浅見さん」

「はい」

「君はいつも、こういう分析をしていたのかな」

その問いに、一瞬言葉が詰まる。でも、もう隠す必要はない。

「はい。データを見ていると、いつも気になっていて。特に中小企業のクライアントさんは、一件一件の数字に、切実な思いが込められているように感じて…」

言葉が自然に流れ出る。今まで、ずっと抑えてきた本当の気持ち。

部長の表情が、僅かに変化する。

「面白い視点だ。江口さん、君の分析と合わせて、具体的な改善案を提示してくれないか」

江口さんが立ち上がる。私たちは小さく目を合わせた。

「はい。浅見さんと昨夜、検討させていただいた改善案があります」

プレゼンテーションが切り替わる。昨夜、二人で何度も見直した画面。クライアントごとの特性、業界別の反応パターン、そして具体的なアプローチ方法。江口さんの的確なデータ分析と、私のクライアント視点が、一つの提案として形になっていた。

「なるほど」

部長が資料に見入る。佐々木さんも、田中さんも、いつもより真剣な表情で画面を見つめている。

「では、この方向で改善を進めてみよう。浅見さん、江口さん、二人でプロジェクトチームを組んでもらえないか」

「え?」

思わず声が漏れる。今までの私なら、きっと「そんな大役は…」と言って下を向いていたはず。でも。

「承知しました」

江口さんと同時に答えていた。会議室の空気が、また少し変わる。


朝礼が終わり、席に戻る。なんだか、自分が自分じゃないような感覚。でも、それは不安ではなく、どこか心地よい高揚感のようなものだった。

「ミユキちゃん」

佐々木さんが近づいてくる。

「昨日、私の案件のことを指摘してくれたから、今日の提案のこと、すごく分かったわ」

穏やかな笑顔。今まで見たことのない、先輩から後輩への、仕事仲間としての表情。

「私も、中小企業の案件、もう一度見直してみようかな」

自然な言葉のやり取り。いつもの愛想笑いや、気を使った応対じゃない。ただ、仕事のことを話している。

「浅見さん」

江口さんが資料を持ってデスクに来る。プロジェクトチームの打ち合わせをしなければ。

窓の外から差し込む朝日が、いつもより明るく感じられた。演じることに疲れた私の中で、確かな変化が始まっていた。

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