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第2章『新しい景色』 〜1〜

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数字の向こう側

朝のエレベーター。昨日までの私なら、ここで完璧な笑顔を作っていたはずだ。でも今朝は、鏡に映る素顔のままで十分だと思えた。

「昨日のプレゼン、良かったですね」

エレベーターの中で、江口さんの声が聞こえる。二人とも何か言いたげなのに、言葉が見つからない。新しいプロジェクトへの期待と不安が、静かに漂っていた。

デスクに向かうと、早速江口さんが資料を持ってくる。佐々木さんは、昨日の分析を基に新しい施策を練り始めていた。いつもの朝とは、全てが違って見える。

普段なら気恥ずかしく感じるはずの視線も、今は心地よい緊張感に変わっている。それは、本当の自分で仕事をすることへの、小さな自信のような感覚。

「浅見さん、ちょっといいですか」

営業部の山田さんが、見知らぬ男性を連れて近づいてきた。

「新規のクライアント様なのですが」

山田さんが男性を紹介する。スーツ姿だが、どこか既存のクライアントとは違う雰囲気を持っている。三十代前半だろうか。

「垣内と申します。家業の金属加工を継いで、五年になります」

穏やかな、でも芯の通った声だった。

「先日、御社のセミナーに参加させていただいて。中小企業向けのデジタルマーケティングの話が印象に残りまして」

私は小さく頷く。セミナーの資料作成には、私も関わっていた。特に、予算規模別の広告戦略の部分は、密かに力を入れた箇所だ。

「実は、私どもでもネット広告を始めたいと考えているのですが、正直、手探り状態で」

垣内さんが差し出した会社案内に目を通す。創業50年の金属加工会社。従業員20名。新規事業として、独自の金属加工技術を活かした商品開発を始めたという。

昨日まではきっと、こんな商談に同席することもなかっただろう。データ分析と運用が私の仕事、そう決めつけていた。

「少しお話を伺えませんか」

気がつけば、私から声をかけていた。

山田さんが少し意外そうな表情を見せる。いつもの浅見ミユキなら、黙って話を聞いているだけのはずなのに。

「御社の新商品、とても興味深いです」

会社案内のページをめくりながら、私は続ける。

「独自の金属加工技術を活かした商品開発というのは、具体的にはどんなものでしょうか」

「ああ、それが面白いんですよ」

垣内さんの表情が、急に生き生きとしてくる。

「うちの職人が、ある素材の新しい加工方法を発見したんです。これまでにない軽さと強度が実現できて。ただ、まだその技術や商品の魅力を、うまく伝えきれていなくて」

その言葉に、昨日の朝礼が重なる。数字の向こうにある、本当の価値をどう伝えるか。私たちが議論していた、まさにその課題だ。

「実は昨日も、広告運用について議論していたところなんです」

私の声が自然と前のめりになる。

「特に中小企業の場合、限られた予算でいかに効果を最大化するか。それには、商品の持つ本質的な価値を、きちんと理解することが重要だと」

「へぇ」

垣内さんが身を乗り出してくる。

「それ、すごく気になります。実は他の広告代理店さんにも相談したんですが、予算の話が先に来てしまって。うちの商品の価値を、本当に分かってもらえている気がしなくて」

その言葉に、私の中で何かが共鳴する。昨日まで、私自身が数字の表面だけを見ていた。でも、江口さんとの対話を経て、その向こう側が見えてきた。まるで、目の前の垣内さんと、同じ景色を見ているような気がした。

「少し、データをお見せしてもいいですか?」

パソコンの画面を開く。昨日の朝礼で使った資料だ。

「これは、私たちが分析した中小企業の広告効果の特徴です。大手企業と比べて、予算は限られます。でも、そこにはむしろチャンスがあって」

画面を切り替えながら説明する私の声が、徐々に熱を帯びていく。垣内さんの目が、真剣な光を宿し始める。

「なるほど。だから、ここを…」

「はい。御社の技術を活かした商品なら、むしろピンポイントで」

言葉が自然と行き交う。横で、山田さんが少し驚いたように私たちを見ている。


「浅見さん、素晴らしいプレゼンですね」

会議室での打ち合わせが終わり、山田さんが声をかけてくる。

「いえ、データを見ていただけで…」

言いかけて、口をつぐむ。いつもの謙遜は、もう必要ない気がした。

「垣内さんの商品に、とても可能性を感じたんです」

素直な言葉が、自然と出てくる。

「実は」

山田さんが少し声を落として言う。

「この案件、他のチームも狙っているんです。でも、今日の浅見さんの説明を聞いていて、是非一緒にやりたいと思いました」

その言葉に、胸が高鳴る。昨日までの私には想像もできなかった展開だ。

「実は私も」

後ろから声がする。振り返ると、垣内さんが立っていた。

「今日は正直、ただの挨拶のつもりでした。でも、浅見さんの分析を聞いていて、これだと思ったんです。うちの技術を本当に理解してくれる方がいる。そう確信できました」

窓の外から差し込む光が、また新しい景色を照らし出す。昨日、江口さんとの朝礼で始まった変化が、さらに大きな波紋を描き始めていた。

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