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第3章『プロジェクトの季節』〜9〜

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予期せぬ訪問者

カフェでいつものように朝のミーティングを終えようとしていた時だった。

「あの、榊原様でしょうか」

振り返ると、スーツ姿の若い男性が立っていた。航平さんに向けられた視線が、どこか鋭い。

「失礼いたします。A&M広告の森川と申します」

名刺を差し出す手つきは洗練されていたが、どこか落ち着かない様子が見て取れる。A&Mといえば、大手広告代理店の一つだ。

「実は、御社のデータ分析システムについて、大変興味を持っておりまして」

その言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。

「垣内工業での導入事例、拝見させていただきました。中小企業特化型の分析エンジン、非常に興味深い手法です」

航平さんが静かにノートパソコンを閉じる。江口さんは、わずかに眉をひそめている。

「もし可能でしたら、システムの買収について」

「申し訳ありません」と航平さんが遮る。「そのような話は」

「まずは三千万円からスタートさせていただければ」と森川氏は声を落として続ける。「もちろん、成果に応じて上積みも検討いたします」

私の息が止まりそうになる。たった2ヶ月ほどで作り上げたシステムに、その金額が提示される現実。

「実は」と森川氏が続ける。「弊社でも中小企業向けのデータ分析を進めているのですが、垣内工業様のような成功事例はまだ出せていません。御社のアルゴリズムには、我々には見えていない要素があるように見受けられます」

そう言いながら、デジタル戦略室責任者の名刺を差し出す。

航平さんは黙ったまま、その名刺を見つめている。

「もちろん、システムだけではありません。榊原様にも、弊社デジタル戦略室のコアメンバーとして」

「お断りします」

航平さんの声は、いつになく強い確信に満ちていた。

「このシステムは、浅見さんたちと一緒に作り上げたものです。データの意味も、改善のポイントも、全て一緒に見つけてきました」

その言葉に、私は胸が熱くなる。

「金額面では、もちろん検討の余地も」

「それは関係ありません」と今度は江口さんが言う。「私たちには、まだやるべきことがある」

森川氏は一瞬言葉を失ったように見えた。しかし、すぐに表情を立て直す。

「では、別の形での協業は」

「申し訳ありません」

遮ったのは村井さんだった。いつの間に来ていたのだろう。

「彼らのアプローチは、既存の手法では見えてこなかった価値を見出すこと。それは規模の追求とは、少し違う方向性なのかもしれません」

森川氏は、私たちの表情を一人一人確認するように見つめた。そして、ゆっくりと名刺を収める。

「分かりました」と森川氏は去り際に振り返る。「ただ、このマーケットは、これから大きく動き始めます。その時は、また」

その背中を見送りながら、私たちは深いため息をつく。航平さんの表情が、どこか曇っているのが気になった。

「大丈夫?」と村井さんが声をかける。

航平さんは静かに頷きながらも、「垣内さんのデータの件が少し気になって」と漏らす。

「ええ、私も気になっていました」と村井さんが頷く。「確認を取ってみましょう」

カフェの外では、いつもと変わらない朝の光が差していた。でも、確実に何かが動き始めている。その予感が、私たちの心を静かに揺らしていた。


カフェを後にしながら、私は航平さんの言葉を思い出していた。「浅見さんたちと一緒に作り上げたもの」。その言葉の重みが、今さらのように胸に響く。

「浅見さん、このシステムのことなんですが」と航平さんが立ち止まる。「まだまだ改善の余地があって、できればこれからも一緒に作り上げていけたらと思うんです」

その言葉に、朝の光が少し眩しく感じられた。迷わず頷く私の胸には、確かな手応えが広がっていた。

中小企業の可能性を信じて始めた取り組み。それは、私たち自身の可能性を見つける旅でもあった。江口さん、榊原さん、村井さん、そしてサンフランシスコのマリさん。みんなで見つけてきた景色は、お金に換えられるようなものじゃない。

これから先、もっと大きな波が来るかもしれない。でも、それを乗り越えていける。そう確信できる瞬間だった。

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