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第4章『試練の季節』〜2〜

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静かな転機

帰宅したのは、午前0時を回っていた。リビングの明かりが灯っている。普段なら母は10時を回ると寝室に行ってリビングは真っ暗なのだけれど、今日は何かあったのだろうか。

「おかえり」

玄関を開けると、待っていてくれていたかのように母の声が響く。

「最近、顔色が悪くて心配だったから」
と母が言う。

返す言葉が見つからない。確かに、この一ヶ月で生活は大きく変わった。朝は早く、帰りは遅く。休日も外に出かけることが増えた。それでも母は、何も聞かずに見守ってくれている。

シャワーを浴びながら、今夜の会話を思い出していた。航平さんの弱気な声。江口さんの抑えきれない咳。榊原さんの忠告。

確かに、誰もが限界に近づいている。でも、だからといって今のペースを落とせば、せっかく築いた信頼関係も、チームの一体感も、失われてしまうのではないか。

ベッドに横たわっても、なかなか眠れない。スマートフォンには、明日の予定がびっしりと詰まっている。昼は会社の企画会議がいくつも続き、夜は新規クライアントとの打ち合わせや、マリさんとのオンラインミーティングがある。

時計の針が、静かに深夜を刻んでいく。このまま朝を迎えても、きっと答えは見つからない。それでも、何かを変えなければ。

目を閉じると、チームの顔が浮かんでくる。みんなが必死に走ってきた道のり。その先に見えていたはずの景色。それを、私たちはまだ見失ってはいない。

ただ、その手前で、立ち止まらなければいけない時が来たのかもしれない。

翌朝、会社の企画会議で私は大きなミスを犯した。前週の数字を完全に読み違えていたのだ。

「浅見さん、少し話があります」

会議後、上司に呼び出された。最近の様子が気になる、と。いつもなら飲み込みの早い浅見が、何度も同じことを確認するようになった。提出物の期限も、何度か過ぎている。

「体調でも悪いのか?」

「いえ、その…」

言葉に詰まる。どう説明すれば良いのだろう。説明できるはずもない。

昼休み、江口さんから連絡が入る。

『風邪が完全に治らなくて、今日も会社を休みます。夜のクライアントフォローは・・・』

返信の途中で、マリさんからのメッセージも届く。

『大きな発見がありました。日本の深夜1時頃、オンラインで確認させていただけませんか?』

画面を見つめたまま、私は深いため息をつく。このままでは、きっと全てが壊れていく。会社での信頼も、クライアントとの関係も、チームの絆も。そして、自分自身も。

その夜は珍しく、チームでの打ち合わせを入れていなかった。江口さんの体調を考えて、早めに休もうということになったのだ。

それでも私は、シェアオフィスに向かっていた。マリさんとの深夜のミーティング。少なくとも、それだけは欠かすわけにはいかない。

「浅見さん」

意外な声に振り返ると、航平さんが立っていた。

「実は、マリさんから僕にも連絡が」

深夜のオフィスで、私たちはマリさんからの分析データを見つめていた。彼女が発見した新しいパターン。それは、私たちがここまで見落としていた重要な示唆を含んでいた。

「中小企業の場合、この時間帯の反応には、経営者の個性が強く表れるんです」

マリさんの説明に、私たちは思わず顔を見合わせる。

「その個性に合わせた提案ができれば、もっと効果的な施策が」

その言葉に、私は複雑な感情を覚えた。確かに素晴らしい発見。でも今の私たちには、その可能性を追求する余裕さえない。

ミーティングを終えた後、航平さんと私は言葉を交わさないまま、夜景を見つめていた。

新しい可能性。それは、私たちが最初に描いていた理想に、確実に近づくものだった。中小企業ならではの強み。経営者一人一人の個性。その価値を、データで裏付けることができる。

「時間があれば、この発見を基にシステムを改良できるのに」

航平さんが静かに言う。

その言葉に、胸が締め付けられる。彼の本業の締切は明後日。江口さんは体調を崩したまま。私も会社での信頼を失いかけている。

「航平さん」

声を上げかけた時、エレベーターの到着を告げるベルが鳴った。

「やっぱり、ここにいた」

榊原さんが、コンビニのコーヒーを手に現れる。

「洋平兄さんのやきもきする様子が心配で・・・」と彼女は航平さんに向かって言う。
「本業の締切、間に合いそう? 兄さんに迷惑をかけないようにしないと・・・」

弟を心配する姉の眼差しに、航平さんは小さく頷くことしかできない。

「今週末、みんなで話し合う時間を作りましょう」と榊原さんが切り出す。

その提案に、私と航平さんは沈黙で応える。確かに必要なことだ。でも今の状況で、そんな時間が取れるのだろうか。

「このまま進むと、きっと後悔する」

榊原さんの声には、フリーランスとしての経験が滲んでいた。

「仕事に追われて、大切なものを見失うこと。私も経験があります」

深夜のオフィスに、静かな時間が流れる。航平さんは締切を抱え、江口さんは体調を崩し、私は会社での信用を危うくしている。そして何より、クライアントとの関係にも、少しずつヒビが入り始めている。

始めた時の想いは、確かに正しかった。中小企業の可能性を信じ、データの力で後押しする。その手応えは、今でも失われていない。

でも、その手応えに焦って突っ走りすぎた。一人一人の限界を、見誤ってしまった。

「分かりました」

私の声が、暗がりに響く。

「日曜日の午後、みんなで、家でゆっくり話しましょう」

私の言葉に、榊原さんが静かに頷く。

「そうね。オフィスじゃない場所の方が本音も出やすいかもしれない」

窓の外では、夜勤の始まるビルに明かりが灯り始めていた。この街には、様々な働き方があって、それぞれの生活がある。私たちも、自分たちなりの形を見つけなければ。

「浅見さん」

帰り際、航平さんが声をかけてきた。

「今日のマリさんの発見、素晴らしかったですね。でも、すみません。本業も押していて、今、新しいプログラムに取り組むのは・・・」

「いいえ、彼女は私たちのさらなる可能性を教えてくれた。だからこそ、今は一度立ち止まるべきなのかもしれない」
私は前を見つめながら答える。

家に帰ると、もう午前2時を回っていた。キッチンには母の残したおかずが、温かいまま置かれている。テーブルには小さなメモ。『無理しないでね』

目頭が熱くなる。仕事に夢中になって、大切なものが見えなくなりそうだった。榊原さんの言葉が、今さらのように胸に響く。

日曜日。やっと、ゆっくり話し合う時間ができる。
きっと、そこから何かが見えてくるはず——。

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