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第4章『試練の季節』〜3〜

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新たな一歩

日曜日の午後、私の家のリビングに、チームのメンバーが集まっていた。

母が入れてくれた温かいお茶を前に、しばらくの沈黙が流れる。全員が顔を合わせるのは、随分と久しぶりだった。

「このままじゃ……」

と江口さんが言葉を濁す。続けたい気持ちと、現実との間で揺れているように見える。

「マリさんの新しい発見も……本当は、もっと掘り下げたいのに」

と航平さんが静かに言う。

その言葉に、私は少し胸が痛んだ。誰もが同じ思いを抱えているのかもしれない。可能性は見えている。でも、今の体制では、その可能性に近づくことさえ難しい。

「垣内工業さんの案件にしても、もっときめ細かくフォローできれば新しい可能性が見えてくるはずなんです。でも今は、最低限の対応さえ、やっとの状態で……」

と江口さんが続ける。

最初のクライアントとの信頼関係が、私たちの原点だった。その関係さえ、今は十分に育てられていない。航平さんもため息まじりに、データの更新頻度の低下を指摘する。本来なら、日々の変化をもっと細かく追えるはずなのに。

「でも、今の働き方を続けていけば、きっと誰かが倒れる……それは、誰のためにもならない」

と榊原さんが静かに言う。

その言葉に、誰も反論できない。江口さんの風邪も、私の会社でのミスも、全て無理が重なった結果だ。でも、ここまで築いてきた関係を、自分たちの力不足で手放すことになるのか。その思いが、誰の胸にもあった。

「村井さんに相談してみませんか?経営相談会での経験も豊富だし、きっと何かアドバイスをいただけると思うんです」

江口さんが提案する。

私は少し考え込む。確かに村井さんなら、私たちの状況を理解してくれるはず。でも、まだ自分たちで何とかできるのではないか。そんな迷いが、心のどこかにあった。

「新規案件は、一時的に止めるのが現実的だと思います。今のクライアントとの関係を大切にしながら、少しずつ体制を立て直していくしかないと思います」

と航平さんが言う。

現実的な提案だ。でも、それは成長の機会を逃すことにもなる。先日マリさんが示してくれた可能性。経営者一人一人の個性に合わせたアプローチ。それを試せる機会が、目の前を通り過ぎていく。

「このタイミングを逃すと、私たちの強みが大手にも真似されてしまうかもしれない。今が勝負なのに」

という私の言葉を、榊原さんが優しく遮った。

「でも、つぶれてしまっては、何も残らないわ」

窓の外では、日曜日の穏やかな陽射しが差し込んでいた。この光の中で過ごす時間さえ、最近は失っていた。家族との団欒も、友人との会話も、ゆっくりとした食事の時間も。

「三ヶ月」と榊原さんが切り出す。

「まずは三ヶ月。新規は止めて、今のクライアントとの関係を深めることに集中しましょう。それと同時に、一番大事なのは、それぞれの働き方を見直すこと」

「見直すって、具体的には?」

私が尋ねる。

「例えば、朝型と夜型で役割分担をしてみるのはどうでしょう」

榊原さんが説明を続ける。

「江口さんは朝が早いから、早朝のクライアントフォロー。浅見さんと航平は夜に強いから、深夜帯のマリさんとの連携。無理に全員が同じリズムを取る必要はないんです」

確かに、今まで全員が深夜まで作業して、朝も早くからミーティング。その結果、誰もが疲弊していた。

「クライアントごとの担当制にすれば、私の会社の休憩時間にも、しっかりフォローできるかも」

と江口さんが目を輝かせる。

航平さんも頷く。

「システムも、担当者別の通知設定ができます。緊急度に応じて、対応する人を設定しましょう」

「それなら、クライアントの方々にもきちんと説明できそうですね。担当制になることで、むしろコミュニケーションの質は上がるかもしれません」

と私が言う。

「でも、三ヶ月の間に、次の展開も考えていかないと。このままの個人作業の延長では、いずれ同じ問題に直面することになるわ」

という榊原さんの言葉に、私たちは顔を見合わせる。確かに今回の危機は、私たちの働き方を見直すきっかけになった。でも、このままでは、また同じ場所に戻ってくる。

「新しい人材の採用も検討が必要かもしれません。今のシステムを理解して、日常的な運用を担当できる人がいれば、僕も本業との両立がもっとしやすくなるんですが」

と航平さんが静かに提案する。

私も小さく頷く。チームとして成長していくためには、仕事の仕組みそのものを変えていく必要がある。個人の努力や時間のやりくりだけでは越えられない壁が、確実に見えてきていた。

「実は」

と江口さんが少し躊躇いがちに切り出す。

「先週、垣内工業さんとお話しした時に、広告効果の分析会議を定期的に持ちたいと仰っていたんです。でも今の体制では、そこまでの時間が取れなくて」

その言葉に、航平さんが身を乗り出す。

「データは取れているのに、それを十分に活かせていないんですよね。もっと細かな分析ができれば、施策の改善にも」

「そういえば、マリさんも、シリコンバレーの事例として、データに基づいたコンサルティングの重要性を指摘していたわ。単に広告を出稿するだけじゃなく、その効果を一緒に分析して、次の施策に活かしていく。そこまでできて初めて、本当の価値になるって」

と榊原さんが思い出したように言う。

私は黙ってその会話を聞いていた。確かに、広告を出して終わり、ではない。むしろ、そこからが本当の価値を生み出すスタートなのかもしれない。でも、そのためには今の体制では足りない。

「新しいメンバーを迎えるにしても、その人にどんな役割を担ってもらうのか、私たちがどんなサービスを目指すのか、はっきりさせる必要がありますよね」

と私が言う。

「データアナリストというか、クライアントの業界特性を理解しながら、数字から具体的な施策を提案できる人材が必要かもしれません。ただ、そういった即戦力は、どうしても大手に流れてしまいそうで」

と江口さんが考え込むように言う。

航平さんも頷きながら、

「給与面でも、キャリアパスの面でも、私たちのような小さな組織では難しいかもしれません」

と付け加える。

その言葉に、一瞬の沈黙が流れる。確かにその通りだ。大手には敵わない部分が多すぎる。

「それなら発想を変えてみましょう」

と榊原さんが穏やかに言う。

「未経験でも、データ分析に興味があって、中小企業の可能性を信じてくれる人。そういう人と一緒に育っていくのも、私たちらしい方法だと思うわ」

その言葉に、私は思わず目を輝かせる。確かに、最初から完璧な人材を求める必要はない。私たちだって、ここまで手探りで来たのだから。

「それに」

と航平さんが少し表情を明るくする。

「今のシステムも、使いながら改良を重ねてきました。新しいメンバーと一緒に育てていけば、もっと使いやすいものになるかもしれない」

江口さんも頷きながら、

「私も最初は広告の知識なんてほとんどありませんでした。でも、データと向き合ううちに、少しずつ見えてくるものがあって。その経験を活かせば、新しい人の成長もサポートできるはず」

と前向きな言葉を口にする。

そうか、と私は気づく。人を育てられる組織になること。それは単なる規模の拡大ではなく、私たちが目指すべき本当の成長の形なのかもしれない。

「まずは、この三ヶ月で今の体制を立て直す。その間に、新しい人材の募集要項も考えていく。焦る必要はないわ」

と榊原さんが整理するように言う。

「三ヶ月後には、もう一度ここに集まりましょう」

と榊原さんが言う。

「その時に、どれだけ変われたか、次は何ができるか、改めて話し合えれば」

母が新しいお茶を運んできてくれる。窓の外では、休日の午後の陽射しが柔らかく差し込んでいた。いつの間にか、重たかった空気が少し軽くなっている気がした。

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