動き出す歯車
日曜日の午後、リビングでの話し合いは3時間を超えていた。新体制について、クライアントへの説明について、そして新しい人材の募集について。一つずつ、確かな手応えを感じられる結論に至っていた。
「明日からの担当制について、具体的に決めておきませんか? クライアントごとの特性もありますし」
という江口さんの提案に、みんなが一斉に姿勢を正す。ホワイトボードを借りに行こうとした私を、母が制して、紙とペンを用意してくれた。
次の一時間ほど、私たちは具体的な分担を話し合った。クライアントは主に私と江口さんで担当を分け、それぞれの会社の休憩時間や隙間時間を使って対応していく。私は製造業系、江口さんはIT系というように、業種での分担だ。
深夜のマリさんとの連携は、夜型の私と航平さんが中心に行い、翌朝には江口さんに引き継ぐ。システムの保守については、航平さんの本業に支障が出ない範囲で、週に二日ほど時間を確保する。緊急時の対応順序も決めた。
「これなら、それぞれの生活リズムを活かしながら、チームとしてもカバーできそうですね」
と榊原さんが資料に目を通しながら言う。
「あとは、クライアントの皆さんへの説明を」
「それは私が」
と江口さんが手を挙げる。
「明日にでも、垣内工業さんから順番に。担当制になることでよりきめ細かなフォローができること、マリさんとの連携で24時間体制が整備されることを説明させていただきます」
航平さんがノートパソコンを開きながら、
「担当者別の通知設定も今日中に実装しておきます。緊急度に応じて、担当外のメンバーにもバックアップの通知が行くように」
と具体的な対応を提案する。
形になっていく。それぞれの得意な時間帯、スキル、立場を活かしながら、チームとして機能する形が、少しずつ見えてきていた。
「未経験者を一から育てるのは、今の私たちの余裕を考えると難しいかもしれません」
と江口さんが現実的な懸念を口にする。
「そうですね」
と航平さんが頷く。
「でも、例えば広告代理店でデータ分析の経験がある人で、中小企業支援に興味を持ってくれる人なら。最初は業務委託という形でも」
榊原さんが考え込むように言う。
「確かに。即戦力だけど、大手とは違う価値観を持っている人。そういう人材なら、私たちの理念にも共感してもらえるかもしれない」
「フリーランス向けの仕事マッチングサイト『スキルシェア』で、まずは業務委託から始めるのはどうでしょう」
と航平さんが提案する。
「僕も本業の案件で何度か使っていますが、実務経験のある方が結構いらっしゃって」
「確かに」
と江口さんが目を輝かせる。
「『プロジェクトマッチ』とか、最近はスキルを持った人と企業を結びつけるプラットフォームが充実してきてますよね。特に、子育て中で時短勤務を希望している方とか。前職での経験を活かしながら、柔軟な働き方ができれば」
私も思わず身を乗り出す。
「データ分析の経験があって、今は時間に制約がある方。そういう人なら、私たちの24時間体制にもフィットするかも」
「そうなると、まずは3ヶ月で今の体制を立て直し、その間に『スキルシェア』で業務委託できる方を探していく。実績を見ながら、将来的には正社員として迎えられるかもしれない」
と榊原さんが整理するように言う。
航平さんがノートパソコンを開きながら、
「実は『プロジェクトマッチ』には、過去の実績や評価がしっかり残る仕組みがあるんです。即戦力として期待できる方を見つけやすいかもしれません」
と具体的な提案を加える。
最初は漠然としていた話が、少しずつ形になっていく。生活リズムに合わせた担当制、システムを使った効率的な情報共有、そして新しい仲間との出会いへの期待。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。日曜日の午後、母が用意してくれたお茶を飲みながらの話し合いは、思いがけない希望を見つける時間になっていた。
「じゃあ、明日から」
と私が言いかけたとき、江口さんのスマートフォンが震える。
垣内工業からの緊急のメッセージだった。
「御社の分析システムのことで」
と江口さんが画面を読み上げる。
「大手メーカーの知人から問い合わせがあったそうです。導入を検討したいと」
一瞬の静寂が走る。今日決めたばかりの新体制。まだ動き出してもいないのに、早くも想定外の引き合いが。
「どうしましょう。今は新規案件を控えめにして、体制を立て直す予定だったのに……」
と江口さんが不安そうに私たちを見回す。
航平さんが少し考え込んでから、
「大手メーカーということは、データ量も、求められる対応の質も、今までとは違う規模になりますよね」
とつぶやく。
確かにその通りだ。中小企業向けに作り上げてきた私たちの手法が、大手企業に通用するのか。それに、今の体制で対応できるのか。
「でも、これも私たちの価値を認めてもらえている証かもしれない。すぐに返事をする必要はないと思うけど、可能性として検討する価値は十分にあると思う」
と榊原さんが静かに言う。
私はぼんやりと窓の外を見つめる。そうだ、中小企業の可能性を信じて始めたプロジェクト。その手法が、大手メーカーの目にも留まるほどの価値があると認められたということ。でも、それは本当に私たちの目指す方向なのだろうか。
「まずは垣内工業さんに状況を正直にお話ししませんか? 今、私たちが直面している課題も含めて、率直に相談させていただければと思うのですが」
と江口さんが慎重に言う。
その提案に、みんなが少しずつ頷き始める。これまで築いてきた信頼関係があるからこそ、率直に相談できる。それが、私たちの一番の強みなのかもしれない。
「それに、このタイミングで大手向けのシステム改修に着手すると、今の中小企業向けのサービスに影響が出る可能性が高いんです。私たちのリソースを考えると、どちらかに集中せざるを得ない」と航平さんが現実的な懸念を口にする。
確かに。今私たちに必要なのは、目の前のクライアントへの価値を、より確かなものにしていくこと。それなのに、大手案件に気を取られて、その基盤を揺るがすわけにはいかない。
「今日決めた通りに進めましょう。まずは3ヶ月、チームとしての形を整えること。その後で新しい可能性を考えていけば良いと思います」
と私は決意を込めて言う。
「そうですね。垣内工業さんも、そのほうが安心してくださるはず」
と榊原さんが穏やかに言う。
「私たちの誠実さを評価してくださっているんですから」
母が夕食の支度を始める気配がする。陽が落ちかけた空を見上げながら、私は少し深いため息をつく。大手案件という誘惑を振り切る決断。でも、それは同時に、自分たちの道を自分たちで選んだという確信でもあった。
「明日からの担当について、もう一度確認しておきませんか?」
と江口さんが資料を広げ直す。早速、クライアントへの説明と、新体制の準備に取り掛かりたいという思いが伝わってくる。
その夜遅く、帰り際の玄関で航平さんが立ち止まった。
「浅見さん、ありがとうございます。大手案件を断る決断、僕には出来なかったかもしれない」
と静かに言う。
「でも、今の選択が正しいって、心のどこかで分かってました」
そんな彼の言葉に、私は何も返せなかった。ただ、確かな手応えのようなものを、胸に感じていた。