日常の風景 その1
朝八時。オフィスビルのエレベーターの中で、私は今日の「表情」を確認していた。
控えめな笑顔。少し首を傾げ気味に。髪は耳にかけて、清楚な感じを残しつつ、トレンドも意識した黒髪ミディアム。スーツは紺色で、真面目さと可愛らしさのバランスを取っている。
完璧。
エレベーターのドアが開く直前、私は小さく深呼吸をした。さあ、今日も演技の始まりだ。
「おはようございます!」
声のトーンは元気よく、でも騒がしくならない程度に。お辞儀の角度は30度くらい。先輩たちが見たがっている「かわいい後輩」が、そこにいた。
「あ、ミユキちゃん、おはよう」
「ミユキちゃん、今日も元気だねー」
いつもの挨拶が返ってくる。私は適度に頬を緩めて笑顔を返す。この三年間で、この程度の演技はもう完璧になっていた。
自分のデスクに向かいながら、昨日の広告運用データが気になって仕方がない。でも、今は確認する時間じゃない。まずは周りへの朝の挨拶。これが、この会社での「正しい」順番なのだ。
「佐々木さん、昨日はお疲れ様でした」
席の隣の先輩に、笑顔で一礼。本当は彼女の広告運用の非効率さが気になって仕方ないのに。
「ありがとう。そうそう、ミユキちゃんに相談があるんだけど」
佐々木さんが、やや申し訳なさそうな表情を浮かべる。この表情は、たいてい追加の仕事が来るサイン。
「はい、なんでしょうか?」
「私が担当してる下町の町工場さん、予算は少ないんだけど、もう少し効果を出せないかって。ミユキちゃん、運用上手だからアドバイスもらえたりしない?」
私は一瞬、目を見開きそうになるのを必死で抑えた。町工場と聞いて、昨夜の自分のクライアントの数字が頭をよぎる。似たような課題を抱えているはずなのに、佐々木さんは基本的な改善策さえ試していない。それどころか——。
「あの、実は私なりに考えたことがあって…」
言いかけて、口をつぐむ。いつもの「かわいい後輩キャラ」なら、ここで意見するべきじゃない。先輩の話を黙って聞いて、せいぜい「そうですねー」と相槌を打つ程度が、演技の基本だ。
「ごめんね、急に振っちゃって。ミユキちゃんも忙しいのに」
「いえいえ、全然大丈夫です!私にできることがあれば…」
まるで台本通りの返事。心の中の本当の自分が、少しむず痒い。
「じゃあ、後でデータ見せるね」
佐々木さんが笑顔で席に戻る。その背中を見送りながら、私は小さくため息をつく。パソコンの画面には、自分が担当する広告アカウントの一覧が並んでいた。昨夜気になっていた町工場の数字を確認する。CTRは相変わらず下降傾向。このままじゃ——。
「おはようございます、浅見さん」
突然、後ろから声をかけられて、私は慌てて画面を切り替えた。振り返ると、新入社員の江口さんが立っている。
「あ、江口さん、おはよう」
彼女は私より2つ年下。でも、入社してわずか数ヶ月で、すでに何人もの先輩から頼られる存在になっていた。真面目で、はっきりと自分の意見を言える子。私とは真逆のタイプ。
「あの、部長に言われた資料、できあがったんですけど…」
江口さんが差し出した資料に目を通す。さすが。私だったら遠慮して言い出せないような改善案まで、しっかり書き込まれている。
「ありがとう。よくまとまってるわ」
「はい、でも…」
江口さんが少し俯く。
「昨日、部長に『数字ばかり追いかけるな』って言われちゃって。浅見さんみたいに、もっとバランスよく仕事できたらいいんですけど」
その言葉に、私は微妙な気持ちになる。江口さんは数字と向き合って、本気で改善案を考えている。私は「かわいい後輩キャラ」を演じることで、皆から可愛がられているだけ。クライアントのためになる提案も、空気を読んで黙っている。
誰が本当にクライアントのために働けているのか、答えは明らかだった。
「朝礼始まりますよー」
誰かの声で、オフィスがざわつき始める。私は急いで資料を手に取り、会議室へ向かう。今日も完璧な「かわいい後輩」を演じるために。
「浅見さん、今日の夕方、少し相談に乗っていただいてもいいですか?」
後ろから江口さんが小声で言う。
「もちろん」
笑顔で答えながら、胸の奥が妙に落ち着かない。いつもなら自然に出来ているはずの受け答えが、今朝は少しだけ居心地が悪かった。
会議室には、すでに数人の先輩が集まっていた。
「おはようございます」
定位置である後ろから2列目の端の席に着く。ここなら、目立ちすぎず、かといって後ろ過ぎず。三年間で見つけた、演技がしやすい絶妙な位置だ。
「じゃあ、朝礼を始めます」
部長の声が響く。今日も最前列で江口さんがまっすぐな背筋で座っている。パソコンを開いてメモを取る準備までしているのが見える。私は手帳だけを取り出した。字を書く振りをしながら、要所だけをさらっとメモする。そう、ここでもバランスが大切なのだ。
「えー、まず今月の実績についてですが」
部長が画面に映し出した数字の表を見て、私は思わず目を凝らした。全体的に前月比マイナス。原因は明らかで、先月から始まった新しい入札戦略の影響だ。これを修正すれば——。
「この数字について、どう思いますか?」
部長の視線が室内を巡る。普段なら、こんな時は下を向いているのが正解なのに。
「はい」
江口さんの手が上がる。さすが。
「広告枠の入札単価を下げたことで、クリック単価は抑えられていますが、その分、掲載順位が下がって全体のインプレッション数が減少しています。結果的にコンバージョン数も落ちているので、見直しが必要だと思います」
私の考えていた通りの分析。会議室が静まり返る。
「ふむ」
部長が腕を組む。
「理論的な分析ではありますが、もう少し現場の声に耳を傾けることも大切です。他にはどうですか?」
私の中で何かが跳ねる。今なら、江口さんの意見を後押しできる。データも、理由も、全部頭の中にある。
でも。
「すみません」
佐々木さんが手を上げる。
「やはり価格だけでなく、お客様との関係性を考えるべきかと…」
その横で、私は黙って手帳に線を引いていた。胸の奥が、昨日より、さっきより、もっともやもやしてくる。
ふと、江口さんと目が合った。彼女は何かを言いたげな表情を浮かべている。きっと、私に期待しているのだ。先輩として、意見を言ってくれることを。
私は、いつも通りの笑顔を作る。その瞬間、自分の中の何かが静かに沈んでいくのを感じた。机の上の手帳には、無意味な線が何本も引かれている。まるで、本当の自分を閉じ込めた檻のように。