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第1章『仮面の理由』 〜2〜

目次

1-1:日常の風景 その2

朝礼が終わり、自分のデスクに戻る。パソコンの画面には、さっきまで確認していた広告運用の数字が並んでいる。今朝の朝礼での話題が、この数字と重なって見える。

「ありがとうございました」

江口さんが、朝一番で渡してくれた資料を返しに来た。受け取ろうとした私の手が、少しだけ震える。

「江口さん」

「はい」

「朝礼での意見、的確だったわ」

思わず口をついて出た言葉。でも、すぐに慌てて付け加える。

「でも、佐々木さんの言うように、お客様との関係性も大切だものね」

「…浅見さん」

江口さんが、真っ直ぐな眼差しで私を見る。

「さっき、何か言いたそうでしたよね」

ドキリとする。私の演技は、この後輩の目には透けて見えていたのかもしれない。

「そんなことないわ」

笑顔を作る。この’完璧な笑顔’が、今はやけに重たい。

「データ、もう一度見直してきます」

江口さんが小さくため息をつき、自分の席へ戻っていく。その背中を見送りながら、画面の中の数字が、どこか自分を責めているように感じた。

『数字ばかり追いかけるな』

部長の言葉が頭をよぎる。でも、この数字の向こうには、必死で商売を続けている町工場の社長がいる。改善案を、伝えなければ。

「ミユキちゃーん」

考え込む私の背後から、佐々木さんの声が響く。

「例の町工場さんの件、今から少し時間あるかな?」

「は、はい!」

慌てて笑顔を作り直す。佐々木さんは、パイプ椅子を私のデスクの横に引き寄せ、iPadを広げた。

「この調子なんだけど…」

画面には、佐々木さんが担当する町工場の広告データが映し出されている。なるほど。これは。

「あの、これって…」

言いかけて、また口をつぐむ。でも、町工場の広告費が無駄になってしまう。そう思うと、

「入札単価なんですけど、もう少し…」

自分でも驚くくらい、小さな声が漏れた。

「え?」

佐々木さんが首を傾げる。いつもの後輩からは意外な発言が出たことへの戸惑いが見える。

「あ、いえ…その…」

慌てて笑顔を作ろうとする。でも、頭の中では改善案が整理されていて、

「実は、今の掲載順位だと、そもそも見てもらえていないんです。だから…」

言葉が、どんどん出てきてしまう。気づけば、画面の数字を指さしながら説明している自分がいた。これは、いつもの私じゃない。

「ミユキちゃん…?」

佐々木さんの声には、明らかな戸惑いが混じっている。私も自分が何をしているのか、分からなくなってきた。

「ご、ごめんなさい。急に変なこと言っちゃって…」

「い、いや。そうじゃなくて」

佐々木さんが言葉を探すように間を置く。

「なんか、いつもと違うなって。でも、その…すごく分かりやすいというか」

話の途中で、カスタマーサクセス部の田中さんが珍しく私のデスクまでやってきた。今月から担当している工具メーカーの案件の担当者だ。

「ミユキさん、お疲れ様です」

「あ、田中さん。どうかしましたか?」

慌てていつもの営業スマイルを作ろうとする。でも、さっき佐々木さんに見せてしまった、普段とは違う自分の姿が頭をよぎる。その気恥ずかしさで、表情が引きつるのを感じた。

「いや、メールでも良かったんですけど」

田中さんが差し出した資料に目を通す。工具メーカーの新商品プロモーションの企画書だ。中小企業向けのキャンペーン展開を考えているらしい。私が担当する広告運用にも関わってくる。

「実は面白い提案があって…」

田中さんの説明を聞きながら、私の目は資料の数字に吸い込まれていった。これは、確かに面白い。でも、さっきみたいに、また変な言い方をしてしまうんじゃないか。そう思うと、急に喉が渇く。

「どうですかね?」

「あ、はい…とても良い企画だと思います」

いつもの自分に戻ろうとする。でも、どこか空回りしている感覚。

「あれ?ミユキさん、体調でも悪いんですか?」

「え?」

「なんか、いつもと様子が違うような…」

その言葉に、胸が締め付けられる。今日の私は、誰から見ても変なのかもしれない。でも、どう変なのかも、どう戻ればいいのかも、分からない。

「大丈夫です。ちょっと考え事してて…」

慣れた笑顔を浮かべようとするけど、それすらも、なぜか今日は難しい。

「あ、データの方、確認させていただいて、また改めてご連絡させていただきます」

早口で言って、その場をやり過ごす。こんなことしたことがない。いつもなら、もっと丁寧に話を聞いて、愛想よく応対するのに。

「そうですね。じゃあ、よろしくお願いします」

田中さんは少し不思議そうな顔をして去っていった。デスクに残された企画書を見つめながら、今日の自分に戸惑いを感じる。画面には広告運用の数字が並んでいる。普段なら気にならないはずなのに、今日は数字の一つ一つが、何か訴えかけてくるみたいで、なんだか気になる。

「ミユキちゃん、お昼行かない?」

声をかけられて、慌ててパソコンの画面を切り替えた。

「あ、今日は少し…資料を確認したくて」

自分でも驚くような返事。いつもなら必ず誘いに乗るのに。周りの先輩たちと一緒にお昼を食べて、楽しく話を合わせて、そういうのが私なのに。

「珍しいね」

不思議そうな視線を感じながら、私は画面に向かったまま小さくため息をつく。

(今日の私、どうしちゃったんだろう)

デスクの上の企画書が、どこか重たく感じる。昼休憩が終わってからずっと、開けられないまま。画面には広告運用の数字が並んでいる。佐々木さんに話してしまった改善案が、まだ頭の中でぐるぐると回っている。

(こんなの、私らしくない)

でも、その「私らしくない」が、なぜか今日は心地悪くもない。

「あ、ミユキさん」

「はっ!」

突然の声に、慌てて姿勢を正す。江口さんが立っている。

「あの、夕方の件なんですが…」

「あ、ええと…」

そうだった。江口さんと話をする約束をしていた。朝礼での出来事。私の様子がおかしかったこと。

「オフィスの外…とかでもいいですか?」

江口さんの声が、いつもより少し小さい。

「え?」

「カフェとか…」

私は一瞬言葉を失う。後輩と外で会うなんて、そんなこと今までしたことがない。でも。

「うん…そうだね」

何故だか、今日はそれも悪くないような気がした。

「じゃあ、17時半に…」

江口さんが言いかけたとき、田中さんの企画書が目に入る。いつもなら、とっくに目を通して、完璧な返事を考えているはずなのに。胸の奥が、なんだかモヤモヤする。

「あの…浅見さん?」

「え? あ、ごめん。そうね、17時半で」

時計を見る。まだ15時。この後、企画書にも目を通さなきゃいけないのに、今日は集中できない。デスクの上の手帳には、佐々木さんとの話の時に無意識に書きなぐった文字が残っている。

(私、今日、どうしちゃってるんだろう)

画面の数字を眺めながら、時間だけが過ぎていく。時々、江口さんの方をちらりと見る。彼女は真剣な表情で画面に向かっている。朝礼の時の話、なんて切り出そう。いや、そもそも何を話せばいいんだろう。

16時を過ぎても、企画書は開いたまま。普段の私なら絶対にありえない。でも、今は広告運用の数字が気になって、それどころじゃない。CTRの低下。予算の消化ペース。改善案。全部、頭の中でぐるぐる回っている。

「お先に失礼します」

誰かの声に顔を上げると、もう17時を回っていた。オフィスの空気が、少しずつ帰宅モードに変わっていく。江口さんの席も、さっきより片付いている気がする。

(あと30分)

考えてしまう自分に、また戸惑う。いつもなら、こんな風に後輩との約束を意識したりしないのに。

パソコンの電源を切る時間が、いつもより長く感じた。画面が暗転して、そこに映る自分の表情が、どこか曖昧に見える。

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