1-1:日常の風景 その3
オフィスを出て、エレベーターに乗り込む。朝と同じ景色なのに、なんだか全然違う自分がいる。化粧直しをしようとして、ふと手が止まる。これも、いつもの私らしくない。
「あ」
待ち合わせのカフェに着くのが早すぎることに気づく。でも、この時間帯の雑踏の中をゆっくり歩く余裕もない。結局、10分も早く着いてしまった。
窓際の席に座って、ふと外を見る。オフィス街の明かりが、少しずつ冬の夜に溶けていく。この景色、今まで見たことなかったな。そんなことを考えているうちに、スマホの画面に17時25分の文字。
(江口さん、来るかな)
そう思った自分に、また驚く。だって、後輩と外で会うなんて、私らしくない。私らしくない——。今日一日、その言葉が何度も頭をよぎった。
ふと、カフェの窓に映る自分が目に入る。今朝、エレベーターの中で確認した「完璧な笑顔」は、どこにもない。
「お待たせしました」
振り返ると、江口さんが立っていた。17時30分ちょうど。
「ううん、私も、ちょうど今来たところ」
そう答えながら、なぜか落ち着かない。オフィスの外で後輩と会うこと自体が初めてだ。江口さんも、メニューに目を落としたまま、何か言いづらそうな雰囲気を漂わせている。私は無意識に背筋を伸ばす。オフィスの外とはいえ、先輩としての立場は変わらない。いつもの “完璧な先輩“ を演じなきゃ。
「あの、浅見さん」
「うん?」
「今日の朝礼の件なんですけど」
ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。その間、二人とも黙り込んでしまった。江口さんは、カップを見つめたまま、何か言いよどんでいる。
「その…朝礼の時の、あの数字のことなんですけど」
その言葉に、私の中で何かが引っかかる。朝礼…数字…入札単価…。頭をよぎる言葉の断片に、胸がざわつく。
「CTRの件…ですか?」
「はい」
江口さんが、おずおずと顔を上げる。いつもの歯切れの良さはどこにいったのだろう。
「浅見さんも、何か…気になることが、ありましたか?」
その問いかけに、私は思わずコーヒーカップに手を伸ばす。時間を稼ぐように、ゆっくりとブラックコーヒーを一口。でも、その苦さが、今日一日の違和感と重なる。
「そんなことは…」
「あの」
二人の声が重なり、また沈黙が落ちる。
窓の外を行き交う人々が、カフェの明かりに照らされては消えていく。その光と影の境界線のように、私の中の何かが、ぼんやりと揺れている。
「朝礼の時、浅見さんが…」
江口さんが、また言葉を探すように間を置く。
「なんだか、言いたそうな表情をされていて」
私は黙ってカップを見つめる。確かに、あの時の自分の表情は、いつもとは違っていたかもしれない。いや、今日一日が、全部いつもと違っていた。佐々木さんに思わず言ってしまった言葉も、田中さんの前での固さも。
「私、今日、ちょっと変だったのかな」
思わずつぶやいた言葉に、自分でも驚く。
「え?」
江口さんが少し目を見開く。
「別に、変じゃ…」
言いかけて、江口さんは言葉を飲み込んだ。窓の外を見つめながら、また言葉を探し始める。
「その、いつもより…」
今度は私の方が言葉に詰まる。いつもより、なんだろう。いつもの私って、どんな私なんだろう。
「朝礼の時の数字のことなんですけど」
江口さんが、また話を戻す。
「私、ちょっと強引すぎましたよね。部長にも怒られて…」
コーヒーカップを両手で握りしめながら、江口さんが俯く。
「違うよ」
思わず口をついて出た言葉に、今度は江口さんが驚いたように顔を上げる。
「あの提案は正しかった。だって…」
また言葉が止まる。普段の私なら、こんな風に後輩の意見を肯定したりしない。ましてや、部長の判断に異を唱くようなことは。
でも。
「データが、そう示してるもの」
小さな声で言った私の言葉に、カフェの空気が少しだけ凝固する。
「浅見さん…」
江口さんの声に、どこか安堵が混じっているような気がした。
「私も、さっきまでずっと考えてて」
コーヒーカップを回しながら、江口さんが続ける。
「数字ばかり追いかけるなって言われて。でも、その数字の向こうには、お客様がいるじゃないですか」
その言葉に、私の中で何かが共鳴する。
「町工場の社長さんとか」
思わず口に出てしまう。佐々木さんの案件も、私の担当している案件も、画面の中の数字は、誰かの必死の思いに繋がっている。
「あ…」
江口さんが、また私の顔を見つめる。
「浅見さんも、気になってたんですね」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。気になってた。そう、ずっと気になってた。でも、今まで一度も声に出せなかった。だって、それは「かわいい後輩キャラ」の役割じゃないから。
「私…」
言いかけて、また迷う。このモヤモヤを、どう言葉にすればいいんだろう。今日一日の違和感を、どう説明すればいいんだろう。
窓の外は、すっかり夜の闇に包まれていた。
「私、今まで…」
また言葉が途切れる。江口さんは黙って待っている。
「数字のこと、広告のこと、色々考えてたの。でも、それを言うのは、なんか…」
コーヒーカップの中の私が、歪んで見える。
「浅見さんって、すごく優しいですよね」
突然の言葉に、顔を上げる。
「みんなに合わせて、場の空気を読んで。私なんか、そういうの全然ダメで」
江口さんが苦笑する。
「でも」
その声が、少し強くなる。
「今日の朝礼の時、浅見さんの目が輝いてるのを見て、思ったんです。もしかして、私と同じこと考えてるんじゃないかって」
その言葉が、胸に刺さる。
「データ見てると、すぐ改善点が浮かんでくるのに、それを言い出せなくて。部長に『数字ばかり追いかけるな』って言われても、どうしていいか分からなくて」
江口さんの言葉が、私の中の何かとシンクロしていく。
「私も…」
小さな声が漏れる。
「私も、データ見てると、色々考えちゃうの。改善できるはずなのに。でも、それを言うと、いつもの私じゃなくなっちゃいそうで」
「いつもの、私…」
自分で言いながら、その言葉の意味を考える。
「朝から、ずっとモヤモヤしてて」
コーヒーカップを握る手に、少し力が入る。
「佐々木さんに、思わず意見しちゃって。田中さんの企画書も、ちゃんと読めなくて。なんか、全部いつもと違って」
「違って、悪いんですか?」
江口さんの質問に、答えられない。悪いのかな。いつもと違う私は、いけないことなのかな。
「浅見さん」
江口さんが、真剣な眼差しで続ける。
「私、今日の朝礼で、浅見さんの目を見た時、すごく嬉しかったんです」
「え?」
「だって、私の意見が間違ってなかったって、その目が語ってたから」
言葉につまる。確かに、私はあの時、江口さんの意見に深く頷いていた。心の中で。でも、それを表に出すことはできなかった。
「でも、結局何も…」
「違います」
江口さんが遮る。
「今、こうして話せてることが、私には嬉しくて」
窓の外で、誰かの笑い声が聞こえる。オフィス街の喧騒が、少しずつ夜の静けさに変わっていく。
カフェの照明が、少しだけ明るさを増す。夜の訪れを告げるように。
「あの、浅見さん」
江口さんが、また言葉を探すように間を置く。
「明日の朝礼で、私、もう一度提案しようと思うんです」
その言葉に、私の中で何かが揺れる。
「今度は、もっとちゃんとデータも用意して。だから…その…」
「一緒に?」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。江口さんの目が、少し輝く。
「はい。浅見さんと一緒に…」
また言葉が途切れる。でも、なぜだか二人とも、それ以上は何も言わなくていい気がした。私は黙ってコーヒーカップを見つめる。長年隠してきた自分の一部が、少しずつ形を変えていくような、そんな感覚。
「あ」
江口さんが時計を見て、少し慌てた様子を見せる。
「もう、こんな時間…」
確かに、カフェの外は、すっかり夜の闇に包まれていた。でも不思議と、いつものように慌てて取り繕うような気持ちにはならない。
「じゃあ、明日」
立ち上がる江口さんに、私は小さく頷いた。いつもの完璧な笑顔でもなく、演技でもなく。ただ、素直に。